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2006年8月29日 (火)

1972 紀勢本線多気 急行「紀伊

Df50 始めて「寝台客車」に乗ったのは、この急行「紀伊」の名古屋~多気間です。父の方針で「子供は夜行列車はだめ」だったので、父が急行「羽黒」や急行「鳥海」の寝台で山スキーに行くのをずっと横目で見ていました。やっと、自分で稼いで乗ったのが急行「紀伊」でした。信州方面から着いて深夜の名古屋で急行「紀伊」のB寝台中段にのった時には緊張していました。始めての寝台と、中途半端に朝の早い多気に降りる緊張感です。この時も、信州周遊券で乗りまくったあとに、名古屋2:51発多気5:20着くらいの、本当にヘビーな行路で、名古屋で乗ったとたんに来た車掌さんに御願いしていなければ起きれないパターンでした。だから、「寝台にねっころんだ」という実感だけでした。当時、周遊券でうろうろしていた皆さんには周知のことですが、足を伸ばして寝られる悦楽は最高でした。このDF50も、名古屋からだったのかはっきり覚えていません。常識的には、名古屋口では無煙化でDD51が入っていたので、亀山交換だったのかもしれません。多気は当時田んぼの中のただのジャンクション。寂しいものでした。こんな駅なのに、いっちょうまえに「授器」がありました。当時の私には、すごく新鮮でした。

2006年8月28日 (月)

1971.8.25 C56144 信濃川上

C56144 「高原列車は行く」ではなく「高原野菜列車は行く」です。このころ、高原野菜が都会を中心としてもてはやされていました。実際には、1968年くらいからのブームでした。戦後何十年も苦労々々の、開拓農家はこの頃に都市部の流通機構に組み入れられました。いまでは、小海線に並行する国道141号線の整備は完璧で、あの急勾配を80~90キロで制限無視の11トントラックが行き交っています。 でも、このころの小海線では、高原野菜収穫の最盛期の夏の終りには、長野鉄道管理局の上諏訪、長野だけではなく、新潟鉄道管理局の糸魚川からも応援のC56を呼んでいました。のんびりしたもので、野辺山高原のあまり勾配がない区間だけではなく、信濃川上方面の急勾配上でも本線に列車を止めて積み込む風景を目にしました。ツム(通風車)が足りなければワムでもなんでも有蓋車の扉を開け放ち板材で養生した貨車をよく目にしました。その他には、レムやレサ、はては、通風コンテナまで使用されていました。中には、後補機付きの列車も設定されていました。考えてみれば、今の高原野菜のトラッは11トン。貨車なら、2両分です。いまさらながらに、貨車の搭載量の多さを思い知ります。

1972.3.20 夜明け前 雨 ED70

Ed70  信州周遊券にはいつもお世話になりました。メインの幹線3本には夜行列車があったので、駅寝でない場合はよく利用しました。しかし、いかんせん範囲がそれほど広い訳ではないので、深夜に乗り明け方に降りるパターンでした。ある日、糸魚川に行くために軽井沢から急行「越前」に乗りました。当然、周遊範囲から先は急行券と別途乗車券が必要です。たしか、軽井沢は23時半前で糸魚川には3:35くらいの到着でした。連日の強行軍で疲れていたのでしょう。見事に、糸魚川で起きられず、列車は親不知トンネル内をEF70に引かれて爆走中でした。次の停車駅は「泊」。何だか乗り過ごしが降りる駅としては象徴的でめげました。あわてて、車掌さんのもとにいって、乗り過ごし=誤乗の証明をしてもらい泊駅に降りました。駅員さんが同情してくれ、駅務室でお茶をご馳走になりました。北陸本線は大幹線なので、夜明けまでに次々と、貨物列車がすごい速度で駆け抜けていきます。そのたびに、招き入れてくださった駅員さんは列車監視にホームに出ます。寝台急行「北陸」や寝台特急「日本海」も来ます。朝の始発になる気動車列車も行きます。そんな中、泊発の始発富山行きになる客車を持ってED70がやってきました。いい面構えです。

2006年8月20日 (日)

1970お彼岸 多摩霊園前 2700系

2701_1  最近、とはいえもう7年も前に「京王帝都電鉄」は「京王電軌」じゃあなく「京王電鉄」になったのですか。お恥ずかしいハナシですが知りませんでした。以前は「京王帝都」と略す場合が多かった気がします。「京王帝都電鉄」とは、戦時統合で作られた東京急行電鉄から分離した時、電気供給事業を戦時体制下で取り上げられていた「京王電軌一社ではやっていけないだろう」と、帝都電鉄をくっつけて「京王帝都電鉄」としたとのことですね。5000系が、今の小田急の新3000形のように増殖していたこの頃「グリーン車」といわれたこの2700系等の電車は本当に好きでした。同時に井の頭線にもステンプラカーが増えていました。小さい頃の緑色は、もっと深い色だった記憶があります。たしか京王線は次の年に最高速度が105キロになり5000系が本来の性能を発揮し始め、沿線にも住宅がどんどん増えて編成も長くなっていきます。この写真は墓参りの時、構内踏切で撮ったものです。京王も、構内踏切の多い鉄道でした。

1978夏 紀伊浦神 キハ81

81  10月のダイア改正まで2ヶ月を切るこの頃、連日地道に熊野灘を見ながら最後の活躍をしていた頃のキハ81です。「はつかり」時代から、「つばさ」「いなほ」「ひたち」と上野始発で活躍していたので、那須や、信州方面によく行っていた私には、そこに居て当たり前、の存在でした。この時期が、一番鉄道と離れていた頃だったので実に悔やまれます。ローカルがローカルらしく、私鉄は古い車両がゴマンと残っていましたし、機関車牽引列車も沢山ありました。残念です。
 このときは、先輩の実家に一週間ほどお邪魔して「日本の正しい夏」を味わっていました。お家でごろごろしていると、目の前にある踏切警報機が鳴り出し、程なく開け放たれた窓からDF50の貨物や「くろしお」やキハ35も混ざっていた気動車が見えます。時折、練習運転の381系も来ました。毎日、入り江のおそろしく遠浅の海に入っていました。で、カメラもあるので来たら上がって写真でも、のものぐさの一枚です。今なら確実に、帰り道に、近鉄で最後の活躍をしていた2200系一族や、車窓からしか見たことがない軽便線区、名鉄の古い車輌、旧型国電を記録していたハズです。

2006年8月19日 (土)

1975 嵐電 西大路三条 盛夏 

116_1 当時関東ではEastWest、関西では8.8ロックデーが行われており色々なバンドが出ていました。。悪い先輩どもに誘われ万博記念お祭り広場にいきました。翌日は、Westload Blues Bandを聴いたからではありませんが、暑い暑い京都へポール集電の嵐電と叡電に乗るためにひとりでかけました。クーラーのない頃、前面窓を開け放ちスピードを真正面から受ける事は喜びでした。市電や都電などの路面電車は運転席が真ん中にあるので、正面の左右を開けていましたが、風通しはこの嵐電にはかないません。後ろまで風が、吹き抜け!!爽快そのものでした。西大路を越え、太秦を過ぎ、帷子の辻を過ぎると嵐山へのラストスパート区間。しかも、専用軌道。しかも、街中より明らかに気温も低くなっていて夜は寒いくらいでした。この風圧をもろに受けて走るムードが最後まで残っていたのは東急世田谷線にトレーラが残っていた頃まででした。前面窓をフルオープンは、もうないのでしょうね。

2006年8月16日 (水)

1976 山崎 485系

 京阪開通100周年でC57が12系を牽いて走った日。暑い秋の日でした。この頃京都の学校に居た私は、どこにそんなお金があったのか「休講」のフダを見ると、北陸本線の「雷鳥」に乗りに行っていました。誰かをさそったりして東尋坊や、京福の三国港線に乗っていました。帰りは、同じく「雷鳥」で、大好きな食堂車でシチュードビーフ定食やハムサラダで一杯引っ掛けて、暮れ行く琵琶湖の風情を味わいそのまま河原町に直行でした。写っているこの編成は、200番台に先頭だけ0番台か100番台がついたものです。やはり、AU12を2機収納したきのこ型クラーきせが素敵です。
 ある日、朝一番の講義が休講だったのですが、4こま目には帰らないといけないのに「雷鳥」に乗ってしまったことがありました。6月終り頃の34度くらいの日でした。午後の一番暑い時間帯に京都に着く上り「雷鳥」は快調に西大津を過ぎ逢坂山トンネルに入りました。
そして、山科盆地に編成が出たとたんに クーラーから白い蒸気がすごい勢いで車内に吹き出たのです。京都の暑さと、異常に湿気を含んだ外気が涼しい車内に急激に流れこんだおかげです。まだ、東山トンネルを越えて京都盆地に入っていなかったのに、です。改めて、京都の湿気を思い知らされました。京都での、鉄道を使っての避暑につきましては追々書かせていただきます。485

2006年8月15日 (火)

1971盛夏 現喜多見電車区付近

全く様変わりした喜多見~成城学園前の野川です。やはり、NSEはクーラー増設前の姿が美しいと感じます。狛江の95キロカーブを過ぎてフルノッチで段丘を駆け上がります。喜多見電車区になった敷地は広大で、多摩延長線の分岐点として確保されていたと聞きました。後から「遊休地利用?」として小田急テニスクラブが作られたりしていました。蒸し暑い、曇り空の中での撮影でした。お隣の京王帝都と違って、やっと5000形の増備車がクーラー付きで出てきたばかりでした。私自身は、窓を全面開放しての走行が好きでしたので別にクーラー車は特別に思っておりませんでした。後日、富士急に移った2320形に春に乗った時、あまりの懐かしさに窓全面開放を味わいました。やはり寒くて同行の会社の同僚にひんしゃくをかってしまいました。当たり前です。3100

2006年8月13日 (日)

久しぶりにキレイな小田急の電車

昨日の大豪雨=洗浄線通過と同じ。のおかげで、何年かぶりに来る電車、来る電車がキレイな小田急でした。かつては関東私鉄では一番電車がきれいだったのに。今は、ベッドタウン化した沿線のせいで客層の変わった京浜急行が唯一きれいです。関西に行くときれいな電車は沢山あるのに。偉大なる自然に感謝します。

2006年8月11日 (金)

1972夏 京都 クハ153 500番台「新快速」

 初めての関西は、見るものが多すぎた。まわるところが多すぎた。ノート一冊に各私鉄などの情報を目一杯整理していったが、ひたすら圧倒されつづけた。面白いものがあると、「記録(写真)」が疎かになるので あまり写真がない。初めての関西は、阪急梅田以外では整列乗車もなく、(といっても、梅田ではみんなキチンと並んで列車を待つが、折り返しの到着で少し崩れ、ドア開けの瞬間には並んでいた列が完全に崩壊するのは素晴らしかった)車内での禁煙、立ちション禁止なんぞクソ食らえの風情だった。この153系新快速も、6両編成の後ろから車掌が車内巡察で行って帰っていくと一斉にみんな煙草を取り出し紫煙をくゆらせていた。153系の110キロ運転は大阪からの上りでは辛そうだった。しかし、ぼくが乗った4分遅れの下り新快速では吹田の坂で115キロを越えて走ってくれた。普通はクモハ41系なども混じってブドウ色だらけだった。ブルーの103系は少なかった。通勤専用車が形相を変え90キロ以上で走る姿はあまり好きではない。今でも、京葉線や埼京線での205系などの100キロ運転は嫌いだ。クモハ51系などの中距離用の戦前の車での爆走は逆に好きだった。153

1970夏 稲城長沼 クハ79全金車

 南武線にはよく乗った。しかし、戦時買収の元私鉄だけに、駅間が長くてもせいぜい60~65キロまでの加速がやっとだった。。川崎から稲城長沼あたりまでは、55キロ出ればよい線区だった。道床の薄さだけではなく泥水がしみてしまい、雨になるとそこここで列車が通過すると水鉄砲状態になる液状化道床となった線路の保守の悪さが目についた。駅構内は、鋳物製ブレーキシューの磨り減った鉄粉が厚く積もって一面赤茶色だった。ゆえに乗り心地の悪さもすごかった。悪名高きロクサンの改造車もいたり、73系は試作車以外全てのパターンが揃っていた!。このあとだったか、オール73(ブドウ色)にまじり昼間だけの川崎~登戸の快速が一時間に1本カナリア色の101系で運転された。ぜーん然、乗客は乗っていなかったが速かった。当時、75キロでかっとばす列車はなかったので通過駅では、シューの鉄粉やら、駅間では液状化した道床の乾いた泥やらを巻き上げて盛大な「ほこりのかたまり」ではしっていた。このころには既にクモハ41系などは見ることができず、朝方にクモハ12あたりを増結した編成が見られるだけだった。ところが、お隣の横浜線は、今と変わらぬ85キロ~90キロの激走であった。クモハ41系などの戦前派が、戦後派の73系よりも多い線区だった。駅間の長さ、ほぼ片勾配の好条件?ゆえか。冬などは、人も少なく速度が高いので隙間風が身にしみる電車だった。この写真、全金車はさすがに工作程度がよく、他の改造車に比べ別の電車だった。79

2006年8月10日 (木)

1968夏 鶴見川橋梁の5000系

 昭和29年より製造の、軽量モノコック、直角カルダン駆動の世界でも驚異的な名車です。なんだか、異様に軽くて、起動、減速時の乗り心地はやわらかい感じなのに、台車が重く感じられるくらいのすごい車でした。物心ついた時からの、かぶりつき屋の印象としては、デッドマン装置つきのコントローラーが印象的でした。このあとの量産車の東急の7000系もそうでしたが、マスコンをオンにする時デッドマン装置を上から押さえての起動操作が「東急新系列車の儀式」のようにかんじられました。でも5000系ほどには上に持ちあがっていませんでした。実は、家に廃車の東急6000系のマスコンがあり、たまに操作していますが、京王のステンプラカー、5000や、京阪、阪急などのタイプなので、イマイチです。5000系はNゲージのGMのキットを改造して2両作りました。ただ、近年の姿がモデル(「棺おけドア」)だったので気合をいれ、まっとうなドアにしました。この写真のデハ5001号車は上田交通(私は、上田丸子電鉄のほうがすっきりくる)に行って、廃車後東急車輛で復元され保管してあるとか。すごく見たいです。開放日はないのでしょうか。

02

1969夏 三島での入換機C58

30_2  当時の沼津機関区には入換用にC58がいました。よく、修善寺や伊豆方面に行っていたので当たり前にいつも居たような記憶が残っています。ハーフカメラを手にすることもあったこの頃、当然の「記録」対象でした。入換の間の一休みの機関士さんに「おいでよ、上げてあげる。」の声で、ホームから降りてEHなどが次々と通過する上り本線を恐々と横切りキャブに上げてもらいました。動力式焚口戸の開閉作用弁ペダル(いまだに機会があると踏ませてもらう、一番のお気に入り)を踏んで石炭をくべさせてもらい、通風器(ブロア)を操作させてもらい、汽笛を鳴らさせてもらい楽しい記憶です。機関士さんは、御殿場線のD52にも乗務されていた方でした。この写真は、いまでも修善寺直通の185系特急が使う渡り線がある、有名?な、車両限界の関係でホームのえぐられている場所です。直線のホームなのに今でもすごく目立ちます。

2006年8月 7日 (月)

1970初夏の小海線光景

1970初夏 千曲川沿いを軽快に単機で。  本当に、よく通いました。この日は川に足をつけて涼みながらでした。首都圏に近いせいていつ行ってもファンが多くいましうたがこの日はほとんどだれにも会わない珍しい日でした。ツバメがぐるりと軒下に巣をかけていた円形の小海町役場を見ながら千曲川を歩いてきたら、上り貨物と交換して下ってきたのは単機でした。この角度からみるC56はキャブの屋根の延長はありますが、本当にちっちゃい~。で大好きでした。今の車両にはない特化した車両であることを思い知らされます。それにしても、酷い写真で。記録です。記録。30_1

2006年8月 6日 (日)

1988秋 伊勢中川 

1988秋 伊勢湾独特とも思える眩い陽光の中のスナックカーと、エースカー。スナックカーは登場当時と同じ装いだが、エースカーは前面サボが新タイプのものに変えられてがっかり。しかしビスタ以降、近鉄特急車の塗り分けはとても好感がもてたのに、サニーカーで全てオジャンになってしまった。それにしても、このベンチが延々とホームに直角に置いてあった伊勢中川がなつかしい。赤福の看板もおいしそー。05

2006年8月 5日 (土)

≪はじめまして≫鉄道好きです

はじめまして。

 小さい頃より好きで、小5よりカメラを借りて「記録」をはじめました。が、だがしかし、です。HP等で拝見する他の人々のすばらしいクオリティーの写真の数々。もっと好きなら、ちゃんと撮っていればよかったと後悔する毎日です。

 周遊券を使っての旅の途中、「鉄道」が好きだったのであまりカメラにこだわらなかったのも原因です。ましてや、多くの方々が記録してくれているじゃあない。ファインダでみていると、後で意外と覚えていないな。との思いがありました。年代的には、鹿児島本線、呉線等の電化、ニセコのDL化にギリギリ間に合っていました。

 おかげで、高校~社会人~家族持ちになるまであまりカメラで撮っていません。その間に、あれだけ乗った旧国、EF58、急行用電車は消え、JNRはJRという単位に切り捨てられてしまっていました。カメラのレンズもキズだらけでボワっとした画像になっていた時期もありました。前述したように、写真は「記録」ととらえていましたので望遠レンズなどは社会人になって135ミリをやっと手に入れたという体たらくです。

 そうした中でも、コマ数はそれなりにありますので新旧交えながら皆様にご笑覧いただければと思いました。また、齢を重ねてはおりますので懐かしいお話でも出来たらとおもいます。

 あまり頻繁にはupdate出来ないと思いますが、たまにはお酒(牛乳?)を片手に立ち寄ってみていただければ幸いです。

<機材の変遷>

オリンパス デミ → オリンパス ペンD → Canon QL17 → Camon FTb

1988頃 OER

4000形5連×2の急行です。冷房化の進んでいた小田急でしたが、当時の予想では車両強度の問題や性能の問題で4000形にはクーラーは積まないだろうと噂されていました。しかし、車体の補強をしてクーラーは積まれました。性能面では、廃車が進められていた2400形の電動機等の流用で高速域での伸びが妙にある電車に生まれ変わりました。台車もPⅢから、京王の6000系や東急の8500系に似て乗り心地がザラザラする台車にかわりました。そのあたり、実はくわしくありません

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1988 阪神間の103系

阪神間。朝陽を浴びて疾走する103系です。本当に、かっ飛ばしていましたが本来は駅間1.4キロ用の電車です。なんでも、90キロ以上での全ブレーキは「危険」と運転士さんから聞いた記憶があります。当時の極限までの経済設計ゆえでしょうか。設計側はそのような事を想定していなかった現場での「不具合」なのでしょう。むかし、Niftyの鉄道フォーラムでそのようなはなしがでていたような。

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☆最高のリンク集☆

  • ⇒【極限の気動車181系 衝撃のターボサウンド】
    さ、さ、最高のキハ181系のHPです。管理人のやくもターボさんによる科学的解説は驚愕の感動をあなたに。私の拙い記録も「SS氏」として採用いただいています。って宣伝です。それにしても、隅から隅まで、掲示板まですごい!!。是非、スピーカもFULLボリュームで!!。わかりますよね!!。
  • 三式雑写真置場
     鉄道、飛行機、自転車好きの多趣味人。猫専門の本館も。
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