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2006年10月

2006年10月29日 (日)

1971.4 横浜駅EF65500番代12レ「あさかぜ2号」

M  朝の横浜駅です。やっと、春を迎えて暖かくなってきたといえ、次々に到着する急行列車、荷物列車群は、先頭にたつEF58のSGからは勢大に暖房用蒸気が噴出していました。EF60500番代から交代したEF65は寝台特急牽引にすっかりはまっていた時期でした。横浜駅では、急行列車が寝台特急を退避する姿をよく目にしました。その中で、勢いよく入線してくる列車が何本かありました。当時の横浜駅東京寄りには「手洗所」が設置してありそういった列車の乗務員は、必ず駆け込んでいきます。早朝の静岡からの長い乗務です。納得です。
 今は、会社の境になる熱海からの乗務に変わりましたが、どうしているのか気になります。かつての駅ではホーム端に「手洗所」のある駅が多くありました。今は、ほとんどありません。
 それにしても。20系特急寝台客車は美しく今でも熱い思いを断ち切れません。

1970.3 旧長野工場 廃車発生品

Photo_7  長野工場は近代的に生まれ変わるべく、レンガの美しい旧工場を捨て北長野に移って2年たっていました。名前が変わった、ここ長野工場栗田分所(旧長野工場)は当時、廃止された蒸気機関車、電気機関車らの廃車解体の一大センターでした。
 かつての試運転線?上に20パイ以上の廃車となったカマが列を作っていました。稲沢にいたキュウロク(9600形)、名古屋の美しい門デフ付きのC5793、北松本にいたED21をはじめとして、新潟局やら名鉄局からの解体車両たちです。
 この写真でも、蒸気ドームがひっくり返っていたり、給水温め器、複式空気圧縮機に、電機のタイヤのない動輪なども写っています。善光寺さんのハトたちが廃屋となった各職場建物に巣食い、解体を待つ車両群に容赦のない白いフンを落としていました。隣の旧長野機関区(長野第一運転所)に立ち寄る時にはかならずこの、長野工場栗田分所に通って二度と火の入らない、二度と動かない彼らに会いに行くのがこの頃の僕の行動パターンでした。

2006年10月22日 (日)

1985 クハ481 違和感のある「ひたち」

481ka_1  その頃、常磐線はつくば博の臨時レに、EC.DC、PCの総動員ででなりふりかまね輸送に明け暮れていました。国鉄の底力が遺憾なく発揮された最後の輝きだったのでしょうか。そのつくば博応援のためでしょうか、鹿児島から大量のクハ481が勝田区に配属になりました。
 60Hz車の印の朱色にクリームラインのスカート、まゆの無いボンネットは「ひたち」の文字には似合いません。やはり、「有明」の方がイメージです。
 たしか、60Hz車の印のスカートは約1年で塗り替えられ、「九州スタイル」のクハ481は早々に見納めとなってしまいました。

2006年10月21日 (土)

1971.3 都電柳島車庫

Photo_3 この年の2月、40度以上の高熱を出しました。そして、お手洗いに立った途中でストーブの上のお湯を足首に浴びてしまいました。本当なら、春休みはあこがれの私鉄王国関西方面にいく予定でした。ここで、行っていたら後の鉄道趣味も随分変わっていたと思ってなりません。その話は置いておきます。
やっと歩けるようになっても、少し歩くと血が下がるのか激痛が襲ってきて、足を水平に置かねばなりませんでした。本当に、片足を引きずっての移動も大変でした。骨が見えるほどになった傷口はまだ全然乾く様子もなく毎日3~4回も包帯を替えないと止まらない血小板でびっしょりになってしまうほどでした。
 それでも、鉄道に触れていないと生きていられないので何が何でも近場であまり歩かずに済むところを思案しました。その結果が、残っている都電路線全線乗破!!でした。松葉杖こそは無いものの、包帯、油紙、ガーゼ、塗り薬にのみ薬を持っての、今思うと壮烈な小旅行だったようです。
 あまり「歩けない」ハズなのに、こんな車庫見学までしているのですから困ったものです。車庫内には、7500形、7000形、6100形、6200形、8000形などがゴマンといて、トラバーサに乗って洗浄線に入ったり、検修線にいったりで活気に溢れていました。この年の11月に車庫が廃止になると、7500や7000は荒川車庫にほとんど移りました。

2006年10月 9日 (月)

1970.7 木曽の林鉄 「みやま」号

Photo  沼田の林業機械化センターに保存されている北海道の置戸営林署にいたボールドウィンの整備塗装作業が進められています。今年7/23に発会した「よみがえれボールドウィン」実行委員会の活動です。
http://www.geocities.jp/rintetsu_club/
 夏草の鉄路さんのブログ
http://natukusanosenro.way-nifty.com/blog/
でその模様が詳しく報告されています。
 その、林業機械化センターに野ざらし(失礼)で保存されている協三の10tDLが、かつて王滝森林鉄道の「みやま」号をよく引いていたNo.141とは先ほどまで知りませんでした。そこで、「みやま」号の終点本谷(ほんたに)停車場で到着と同時に機回しをすませた直後の当時のNo.141のハンサムな姿をお見せいたします。
 もう1枚は、沿線の人の足、または、周辺の人々の山遊び、野歩きの時の交通機関としてあった林鉄の普段の車内光景です。車内真ん中に直立しているのは、灰皿です。
 沿線の、松原停車場の跡地付近では「りんてつ倶楽部」
http://www.geocities.jp/rintetsu_club/
   の皆さんの王滝村とタイアップした活動も続けられています。
 頭がさがります。Photo_4

1971.6 32レ 急行「桜島」「高千穂」

Sakutaka  急行列車に食堂車は不可欠だと思っていました。電車急行にはビュッフェがありましたが、僕にとっては大妥協でした。逆に、小回りの効く気動車急行は、食堂車、ビュッフェよりも駅弁が似合っていると感じていました。
 長距離を走る特急に付いているのは当たり前でしたが、客車急行列車に食堂車があることがすごく「風格があってかっこいい」と思っていました。この頃には、後に北陸トンネル列車火災事故を起こした「きたぐに」、この「桜島」、そして「十和田」の一部列車位しか連結されていなかったかもしれません。それでも、青い10系客車で組成された編成の食堂車は正に華でした。
 初めての、客車での食堂車体験は33レ急行「出雲」でした。盆過ぎの残暑の厳しい夜に東京を起ちました。冷房のない、指定席のナハ11は満員でどの窓も全開で発車しました。有楽町、新橋を通過しながら焼き鳥の香ばしい香りが車内に充満したり、川崎付近では亜硫酸ガスや喉のひりつく空気が容赦なく入り込みます。90キロ前後で走行していますが暑くてたまりません。意を決して、A寝台、グリーン、B寝台を通り抜け食堂車にいきました。オシ17は7割方席が埋まっていましたが、相席で30位の女性の前に案内されました。周りでは、大人が「ハムサラダ」「焼き鳥」などをつまみにビールを飲んでいます。それにしても、食堂車の冷房の涼しさよ。
悦楽の空間です。いつものように、安くチキンライスとサイダーを頼みました。
 これは、横浜駅西方を終着東京に向けての「桜島」「高千穂」です。オユ、ナハフ、オロの前がオシ17です。堂々たる編成です。

2006年10月 1日 (日)

1971 5000系 多摩動物公園直通急行

5000_1  5000系は、京急と同じようにコンパクトな車体ながらも窓の大きい明るい電車でした。また、車内はステンレスを上品に使い首都圏一近代的な感性の電車でした。また、首都圏では一番熱心に冷房化に取り組み、さまざまなタイプの冷房えお積み込みテストを重ねていました。分散式、集中式、集約分散式。結果、天井がいろいろになってしまい乗るのがたのしみな電車になりました。それにしても、よく冷える電車でした。
 休日は熱心に高尾、陣場、景信へのハイキング特急を走らせていました。しかし、前面の行く先表示に写実的なライオンをオレンジでバックに書いた「多摩動物公園」行き急行が一番のお気に入りでした。この、高幡不動でスイッチバックしてしずしずと坂を登っていました。
 しかし、5000系の一番のチャームポイントはヒゲでした。京王帝都の人は、「ひれ」と言っていましたが。デビュー、2年くらいで無くなってしまい本当に残念でした。絵にも描いていたのに。

1973  東急7200系 急行

7200_3  この日は、世界国会議員会議の上り新幹線臨時列車を見に鶴見川鉄橋に出掛けました。何本か見送ったあとに、お目当ての空前絶後の先頭車以外オールグリーン車の世界国会議員会議臨時レがきました。ぱっと見では、区別がつきませんでしたがドア周りが金色なのではっきりわかりました。この頃は、新幹線には防音壁はほとんどありませんでした。
 そして、帰りの綱島駅でとらえた7200系急行です。田園都市線用に作られた車でしたので東横線にはあまり数はなかったようです。7000系と同じでこちらも機器が東洋電機製、日立製と分かれていました。電動機出力は同じでも、やはり日立製が速かったので待ってでもそちらに乗りました。当時の運転士さんは飛ばしやが多く、急行は、上下ともに、自由が丘、日吉で、よく時間待ちをしました。その中に、途中から指導運転士になられたK野さんがいました。特徴的な容姿でしたし、見事なダイビングブレーキをみればすぐにわかりました。われらがヒーローで、K野さん運転の急行はことのほか時間調整の停車が長かったのです。そうです。力行時間が全然長いのです。胸のすくような運転振りでした。

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