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2006年12月

2006年12月30日 (土)

1973.3.22 仙台市電200形

Photo_10  特別企画!路面電車シリーズ第2弾!

 前日は、風雪渦巻き、突然の晴れ間が拡がる五能線を全線乗ってきました。最後の8620牽引の混合列車に乗車するつもりが、タッチの差でDE10に替えられてしまっていました。それでも、貨物レに入っているハチロクがいたりで、失意と、欲求不満のまま急行「八甲田」で朝の仙台に降り立ちました。
 東北新幹線の工事が始まっていて、駅は仮駅舎でした。がっかりです。さすがに朝が早いので駅前は閑散としていました。その中に、市電だけは後から後から来ていて、この街にはバスは走っていないのかしらと思うほどでした。札幌の市電もそうですが、仙台の市電の軌間も1067ミリでスマートで近代的な電車です。乗ってみたかったのですが、何故か本日の前半は国鉄バスの特急盛岡バスターミナル行きに乗ることに決めていました。当時の国鉄周遊券は、国鉄バスの長距離急行線にも乗れたのです。7:30に駅前を出た特急バスは国道4号線を一路北にむかいます。無論、東北道なんてものは影も形も無い頃です。
 長距離のバス旅行は好きでした。ぼくが乗った事のある路線でも、松本~上高地、新島々~飛騨高山、茅野~伊那北、修善寺~下田などがあります。当時は長いバス路線がいくらでもありました。

 道中、中尊寺をはじめ、いつか訪問してみたい場所がいくつもありました。で、ぼくは、花巻市の停留所で降りることにしていました。急行「くりこま2号」に乗り継いで、かつての古戦場の奥中山にいくつもりだったのです。乗車時に運転手さんが「駅までけっこうありますよ」と言ってくれたので、10分くらいは歩くのかなと勝手に思っていたのが間違いの始まりでした。降りたところは本当にあまり民家もない国道端。駅方面への道はずっと登っていく感じです。とても暑い日です。通りがかりの高校生くらいの人に尋ねると1.5キロ以上はあるように言っています。連絡時間を15分と踏んでいたので、荷物と登山靴のいでたちでこの坂道では厳しいかもしれません。ひたすら、小走りに登っていきます。心臓が口から飛び出そうになったところで正面に駅舎が見える駅前広場に出ました。ほっと一息、と思ったのもつかの間、ガランとした改札の向こうに「くりこま2号」の到着がみえます。ダッシュです。そして駅前広場の端から「乗ります!まってくれえ~!」と大声で叫びます。 改札口の駅員さんも気が付いてくれて「発車しまーす」と言って手招きします。見ると、「くりこま2号」は跨線橋を越えた2番線からの発車です。ヒエー。
 「お客様一名ご案内中」と、改札の駅員さんのアナウンスが背中に聞こえます。ドカドカと階段を上がって降りると助役さんが「急いで、急いで」と容赦なくせきたてます。1分半延でガラガラの「くりこま2号」は発車しました。おニューの457系です。なんて、椅子の背もたれの具合がいいのでしょう。咳き込みながらも、汗みどろになった衣類を脱げるだけ脱いで窓を開けて汗の引くのを待ちました。
  そのまま、特急バスで盛岡まで行ってもよかったのですが「くりこま」に乗りたかったのです。ぼくのせいで遅れた「くりこま2号」は、すごい飛ばし方で走ります。胸のすく思いです(勝手な奴です)。盛岡までには回復して、定時到着でした。

1974.1.4 札幌市電240形

Photo_6  某雑誌の特集にいっちょがみ、といったノリでの 特別企画!路面電車シリーズ第1弾!
 大晦日に上野を立って、夜行列車でいつものように西へ東へ南へ北へ。この日は、網走発の臨時急行「大雪51号」で札幌について駅の待合室で暖を取ってから、わずかに残っている市電を見にいきました。
 あまり寝ていませんでした。なぜなら、網走から乗ってきた「大雪51号」は貴重な蒸機牽引急行だったからです。牽引機は、網走~北見C58、北見~遠軽D51、遠軽~上川D51,上川~旭川DD51、旭川~札幌ED76500番台でした。運転期間が短いのと深夜のため、駅でのファンの出迎えはほとんどありませんでした。その代わり、録音機材を持った人たちが先頭のスハフ32の車掌室向かいの手ブレーキ室に鈴なりです。そして、なぜかその中にはぼくも混じっていましたけど。
 前日遅くまでの吹雪は止み、☆振る最高の天気です。窓を開け放した手ブレーキ室の中で、みなまんじりともしないでマイクを掲げています。クシャミなぞしたら、どんな目にあうことやら。それにしても、録音屋さんはなんと我慢強いのでしょうか。快晴で風はないのですが、よくあの寒さにたえています。ぼくは自慢じゃありませんが、山やの父の装備なのでとりあえずは大丈夫なのですがみんな列車の巻き上げる雪煙をもろに被っています。常紋トンネル以外は全て窓は、オープン!。DD51に代わった上川までの話でした。それにしても、素晴らしい蒸機急行の旅でした。
 ちょうど旅に出て4日目くらいで疲れが出るはずなのに、そんなことをしていたのであまり寝ていなかったのです。
 でも、いつ乗ってもゆったりとさせてくれるBGMが駅構内に流れる地下鉄に乗って市電見物です。一昨日の雪が残り、車庫の中には「ささら電車」も前夜の奮闘のまま雪まみれの姿でいました。ひと停留所歩いたとlころに247番がきました。この前後には窓の大きなヨーロピアンの連接電車が出勤していきました。それにしても、路面ディーゼル車には一度は乗ってみたかったものです。

2006年12月29日 (金)

1972.1.3 根岸線EF13

Ef13_1   「品濃峠」の後に(前掲参照)、桜木町に寄ってみました。駅前の歩道橋を上がり大岡川の運河に出てビックリです。港で働く舟が川幅一杯に係留されて、例外なくマストには松飾りをつけています。お正月の町は静かで、天気はいいし、妙に安心した気分になってきます。お隣の道路上には市電の「桜木町駅前」の電停があり、PCCカー1500形などがひっきりなしに走ってきます。
 そんななか突然、ブロアーとモーターの唸りを上げ鉄橋上をけたたましく貨物列車が近づいてきました。オイルタンカーの回送列車です。この頃EF13は山(中央東線)を降りて、山手貨物線、根岸線で活躍しておりいつでもお目にかかれる存在でした。EF15が完成された近代的な機関車でスマートに見えたのにEF13は戦前の電機譲りのデザインのデッキをもっていたので、なんとなく頼りがいがあるように見えました。
 現在でも、根岸線には貨物列車が一時間に1本(朝を除いて)は運転され、EF651000番台、EF210、EF200,EH200などの頼もしい連中が上がり下がりしています。

1972.1.3 寝台専用急行「瀬戸2号」

197201ef58_1   小さい頃は年末、年始はよく泊まりに行っていました。特に妹が小さい頃は、色々な温泉に正月2日位まで逗留していました。
  そして、帰ってきた翌日には品濃峠(勝手に自分で名づけていました。本当は皆さんご存知の通り清水谷戸トンネルのある品濃町です。でも、「峠」といってしまうと燃えてくるから困ったものです)に行って寝台急行、特急、157系等に新年の挨拶をしていました。正月3日は、毎年のように小雪が舞ってくる寒い日です。品濃峠に向かう途中の国道1号では箱根駅伝の復路の応援の人がいつも出ていました。ぼくの方は、列車への挨拶に忙しくて一度も見たことはありませんでした。
 この日の「瀬戸2号」は、多客期のために6号車のオシ16の代わりにスハネ30を入れてあります。旅客満載の長大編成を重そうに引いていくEF58が印象的でした。

2006年12月23日 (土)

1970.7 東急8000トップ編成 営団3000

30008000  夕方の、日吉駅東方。
 8000系は、やっと第2、第3編成がこの年の春に登場して各駅停車運用にのみ入っていました。世界ではじめての回生制動付界磁チョッパ制御、日本初のワンハンドルコントローラー、東急初の20メートル車、と初めてだらけの車でした。
 かたや、営団3000形は、エアサスが効いて乗り心地がよく、ATC搭載の超多段バーニア制御で高加速力を誇っていた。また、3070(3072?)の編成だったか3077の編成にはATOが搭載されていて実用試験が行われました。当時は夢のような、自動運転。停止位置目標と50センチも違わない停車が出来る技術力に驚愕しました。運転台に「ATO」と書いた白いスイッチがついていて、そのボタンを押すと加速、減速も全て自動です。2度ほどATO運転を体験しました。停車すると、運転士さんも気になるようで、外に出てきて停車位置を自分の目で確かめていました。今じゃあ、当たり前の技術ですけど。

2006年12月17日 (日)

1971.7 成城学園前2100系

2100  小さい頃は、足を延ばし(自転車で)て喜多見を見下ろす河岸段丘上の富士見橋に行って小田急線をよく見ていました。もっと小さい頃は、祖師谷大蔵~千歳船橋の水道道路近くの小さな切通しの上がお気にいりでした。都内では、踏切が多かったのでSE車、NSE車はいつもミュージックホーンを鳴らして走っていました。小学校も線路とは道路一本隔てただけだったので授業中でもよく聞こえ、にんまりとしていました。
 でも、でも。記録はありません。写真に撮る人がいるのを知ったのは、鉄道趣味なるものがあるのを知ったのは書店でたまたま、雑誌の売り場にあった「鉄道ピクトリアル」を見つけたからです。それまでも、「子供の科学」の別冊か何かで「鉄道の本」があるのは知っていました。しかし、「鉄道ピクトリアル」はショックでした。全国からの読者短信もあり自分の感覚を持った鉄道が好きな人がいるのに感動しました。以降、「少年画報」「少年」等の月刊誌をねだることは無くなりました。最初に手にした「鉄道雑誌(鉄道ピクトリアル)」は小学校高学年の子供には恐ろしく難解な「交流電気車特集」でした。平滑リアクトル、位相制御、低圧タップ切り替え、アベベ(ABB)などなどの技術用語はそのときに覚えましたし、蒸機がどこにいる、などの情報を仕入れたのもそこからでした。
 そういった知識を少しずつ蓄積しはじめた頃にやっとカメラを姉から借りて使い始めました。
しかし、写真の2100系はライトが2灯化され新塗装でもあったのでどうもイメージが違って好きではありませんでした。最近出ている小田急の写真集の中の電車がぼくの2100系のイメージです。

2006年12月13日 (水)

1969.7 東横線7510急行

7210  7000形が全電動車方式だったのに7200系は1M1T方式になりました。7200はこの頃2編成ほどだったのでしょうか、急行に使われていました。まだ、3600形も元気に走っていました。でも、小田急沿線に育って100キロオーバーの、ABF車になれてしまっていたのであの走りは重くて嫌いでした。無論、どこまでもノッチオンのままの運転士のK野さんもすでにいたはずでしたが。

 7200形の良いところは、この写真にもあるように下降窓が目一杯下げられるところでした。阪急もそんな感じだったとおもいます。今は、豊橋鉄道などの主力として走っているようです。久しぶりに会いに行きたい気もしますが、あの電車で飛ばさないのは許せないかも。

2006年12月 2日 (土)

1973.6 練習運転中の381系車内

Photo_5 3部作 番外編です。
 華々しくデビューした振り子特急「しなの」は、大出力エンジンのキハ181「しなの」に比べ、下りで38分の短縮を果たしました。3時間58分を、3時間20分にしたのです。地道な線増工事の成果もあります。走り始めた振り子「しなの」の当時思った印象を述べましょう。
重心を低く取るために車内天井が低く窓側に乗車した人なら必ず、パイプ製網棚に頭をぶつけました。また、在来線でははじめて客室ドアが自動ドアになりました。あれだけの遠心力ですので、従来型のドアだったら怪我をする人が出たに違いありません。客室ドア付近では、前から人がきてやり過ごす時に、これまた必ず、(客室に比べ数センチデッキ部が高い。そこだけスロープをつけていた)つまずいたり足を踏み外してひねる人がいました。しかし、なんといっても印象てきだったのは、座席背もたれ裏のゴム網のマガジン入れに薄いブルーの色のビニール袋がずらりと差してあったことです。壮観な眺めでした。
 「この列車は、日本で初めての振り子式特急電車です。ご気分の悪くなりましたお客様は、座席前に備えてありますエチケット袋をお使いください」と、車掌さんが本当にしばらくの間放送をしていました。また、車内改札や、車内巡回に来た車掌さんがよく横Gに吹っ飛んでいました。そのため、背もたれを誰もが左右の手でつかみながら車内を移動していました。通路側の席でまどろんでいるといきなり頭に衝撃がくるのはそのせいでした。誰かがバランスを取るために掴んだのです。
 じつは、「げろ袋」は大げさだね、とバカにしていたのですがある日通路に立っての乗車となった時、目線の高さは網棚でまともに車外を見渡せない事に気がついたのです。それまで、乗り物酔いの経験は一度もありません。でも、酔ってしまい大変につらい思いをしました。デッキ付近の人はもっと「効いた」ハズです。そんなことがあってそれからの振り子「しなの」利用では必ず座るようにしました。
 当初は振り子の元ネタのコロにあたりがついていなかったので、カーブに入ると遠心力を感じてひと呼吸してから、「ドカン」。傾斜しながら、「メリメリメリ」。と、大変に大騒ぎをして走っていました。ある日、木曽福島構内で、直前の左カーブで先頭の車体が傾斜したままの状態で進入してくる間抜けな振り子「しなの」を見たこともあります。
 それにしても、乗務員には「恐怖」だったようです。運転士さんに聞くと「カーブへの進入は本当に覚悟を決めても、怖い」と言っていました。
 現在では、制御付き振り子の383系が物凄くよい乗り心地を提供しています。
 一時期、出張で、東京-名古屋-松本-新宿の経路を乗る事が多かった時、つくづくスピードが高いことは疲れる事だと実感しました。新幹線、383系、E351。気動車急行がなつかしや。

2006年12月 1日 (金)

1973.6 木曽福島 新製381系

381 三部作?第3弾です。
電化前後の西線の特急を追ってきましたが、真打381系の登場です。やはり、始めての振り子電車の登場だけあってこの年、1973(昭和48)年の5月15日の通電開始直後から精力的に教習をしていました。たしか、電化によって動力車無配置となる木曽福島機関区の乗務員が優先的に電車「しなの」に乗務する事になったハズです。キハ181の「しなの」デビュー時に、同じく動力車無配置になった多治見機関区の乗務員が優先的に使われたように。
この頃、「電化開業」をつぶさに見てみようと、信州周遊券が安いのをいいことに、2週に一度位金曜の夜に立って月曜の朝に帰る生活をしていました。ドンドンと、別線で複線トンネルを掘っていました。でなければ、未だに進入進出の45キロ制限のある線形で120キロ運転はできません。でも、ほんとうに中央西線は線形にこだわった頃の過渡期だったとおもいます。現に、1969年秋に新線になった鳥居峠の前後にはR400以下の曲線が残りました。その後も、複線化は、山ひだを縫う現在線はそのままに、線増に関してはトンネルで一直線に通していくのが普通でした。しかし、電化前後、すなわち、3年後には、別線複線化が進められました。旧線を捨ててトンネルでの複線化した新線です。電化後しばらくは、ずっと複線化工事が方々でおこなわれました。
電化開業直後に乗った振り子「しなの」はコロ式の自然振り子が、まだ「あたり」がついておらず随分と固かった印象です。
う~ん。長くなっちゃうので、プラスアルファを明日のせます。

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