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2007年2月

2007年2月12日 (月)

1971.8.24 C56129 上桑名川

C56129  飯山線は、八ヶ岳の麓の川上付近から流れ出た千曲川と並行して日本有数の豪雪地帯を縦断しています。そういえば、初めてラッセル車を見たのもここ飯山線でした。C56に押されすごいスピードで来たのでビックリしたものです。冬になると戸狩(野沢温泉最寄)までのスキー臨時列車が上野から直通していて、借り入れたC12やC11などがその任にあたっていたようです。これらの臨時急行「戸狩スキー」、「野沢スキー」などは見ていません。
 ぼく自身は、朝一番の飯山発長野行の通勤通学の222レに興味がありました。当時長野、篠ノ井駅で入れ替えをしていたハチロクが唯一定期で引いていた旅客列車だったからです。しかし、長野始発で行っても撮影予定地までに大雪で動けなくなったり、豪雨で暗すぎて撮れなかったりで、撮影は1度しかチャンスはありませんでした。でも、ころんでもただでは起きないのが、鉄道好きです。「撮れない!」の判断で駅にとって返して乗っています。遅れを持っての豊野から信越本線に入ってからの走りっぷりは、山国信州では特筆ものでした。他の線区は動輪直径1400ミリの足の短い貨物機だけでしたから。さすが、大正期の急客機の走りでした。なんともいえない、三階室の汽笛とスルスルと上がっていく速度は信州ではここだけでした。
 夏の飯山線では、写真を撮っている人にお目にかかった事がありませんでした。なんともノンビリした良いところでした。写真を撮ったお隣の桑名川駅に冬、父とスキーに来た事がありました。 雪の桑名川駅に降り立ったのは冬の16時頃でした。すぐに、千曲川の岸辺に下りると「いない時はこれを叩いて知らせてください」と書かれています。木のげんのうと1斗缶がブル下がっていました。そうなのです。千曲川の渡し船に乗らないと対岸の七巻スキーと今夜の宿には行けないのです。雪の中、ガンガンと1斗缶を打ち鳴らして待つこと5分くらいで船がきました。船が流されないように、川幅一杯に張られたワイヤーに連結されています。船頭さんは皮の手袋でそのワイヤーを持ってたぐって、船を対岸に運びます。実に寒そうです。痛そうです。対岸では雪がすごく、初めて二階から入る経験をしました。

2007年2月10日 (土)

1972.7 中央線101系 三鷹

Mitaka  まもなく、長年走りつづけていた国鉄初の界磁チョッパ制御車の201系が、JREastの誇るE233?に置き換わるそうです。また、京浜東北の「走るんです」もお約束通り約15年で交換されます。201系の中央線のくるまは、正面に掲示板入れ?(今は行灯ですけど)が付いましたが、ぼくには「口」に見えてしまいきらいでした。故に、あまり興味がありませんでした。
 やはり、全電動車方式を追求しようと思っていた101系が大好きでした。窓も大きくよく走る電車でした。103系は高度経済成長期に現出した「通勤戦争」用の「戦時標準車両」で、とにかく安く、沢山作れ、起動加速度が高い、なので乗り心地が悪く嫌いでした。
 井の頭線に急行が走り始めていたのにキチンと写真も撮っていなかったのでぷらぷらとひと回りしにでました。吉祥寺から、東西線乗り入れの5000形ばかり見ながら三鷹に着くと、車掌さんが沢山います。思わず撮りました。交代や、車内改札(検札)要員です。
 当時、いとこのお兄さんが東京西局の運転指令をしていました。都内の「御三家」高校を出てこれまた優秀な工業大学を出たいとこのお兄さんMちゃんは国鉄を選びました。銀座での都電の最後に連れて行ってくれたのもこのMちゃんでした。おばさんは、大の歌舞伎などの芝居好き。おじさんは、当時はめずらしかった京都好きでしょっちゅう京都に行っていたようです。家もバスで一本だったのでよく泊まりにいきました。Mちゃんは、最初は中野区所属で総武線緩行の運転士をしていました。次に、列車課でスジ屋さん、そして当時は前述の運転指令をしていました。他のキャリア組とは変わっていたようで、結局、列車指令と駅、電車区を行ったり来たりで、最後は旧西局管内の某管理駅長で退職したようです。
 101系はサハが入って性能を落として(本当は入れたくなかった)しまいましたが、よく走りました。首都圏どこにでもいるようで、中央快速、関連の青梅、五日市、南武線の一部、そして総武線緩行、武蔵野縁にしか使われていませんでした。中高速域での伸び、高速からの安定した素直なブレーキ、いいくるまでした。また、クーラーなしの101系に乗りたいものです。

2007年2月 4日 (日)

1971.1.5 東洋活性白土 無番ロコ

Tohyoh  最近、RW紙上で、大先輩の湯口さんの「サンパチ豪雪」の、「雪中行軍」のお話を読んで感動しました。また、長野機関区の乗務員のお話があって今じゃないと聞けない「昔話」が出ています。元?歴史学徒としてRWさんの「甲組」のお話はもっともっと拡大してお願いしたいと思っています。僭越ながら、過ぎたる20余年前、戦前の軽便鉄道経営者や、従業員の方々が元気なころに日本現代史研究のフィールドへ沢山の基礎資料、基礎研究を残そうと思っていました。日本の文化史、経済史、社会史の研究の一助になると思ったからです。その思いは個人の都合と、家族もちの「生業(なりわい)」のハザマで潰え(ついえ)ました。今の、ぼくにはその頃の元気はありません。いまも、嫁さんからは、糾弾されています。
 当時立ち上げをお手伝い??した鉄道史学会の同期の仲間SさんはRJにいます。立派です。もう一人のOさんは某独立行政法人の助教授です。これまた、素晴らしいことです。人生タイミングです。もう一つは「C調」かも知れません(クレイジーキャッツ世代は当たり前)。でもこの方々は当然、ぼくが、求め、残そうと思っていた路線とは違うのが口惜しいところです。
 今は、懐古主義で凝り固まって月に何回かの当ブログの更新に血道をあけているのがせいぜいの「敗北者」です。あの時代なら、まだまだ青木先生や、中川先生の隙間を埋められたかもしれません。なんて、昨年、閉館の直前に交通博物館に行ったときに、学会でよくお会いした資料室(図書室)のSさんのお顔を拝見して、つくづく考えました。失礼しました。
 で、うだうだはこのくらいで。
 キネマ旬報社から出ていた「蒸気機関車」誌だったでしょうか。遅くきたぼくは、軽便蒸機にあこがれていました。「糸魚川のポプラの木」的な題名のその記事に、くぎ付けになりました。
 まだ日本に蒸機だけの軽便の線があるなんて!!。しかも、当時散々利用していた信州周遊券の北限、南小谷のすぐ先の糸魚川です。日本海も見たことがなかったので見てみたいし。すぐに、前から通っていた神田の地図店で地図を見るとありますあります。駅のすぐ近くです。正月休み明けのある日、小雪交じりの日差しも時折ある天候の糸魚川駅に降り立ちました。素敵なレンガ作りのクラがありC12やC56、EF70にEF81がたむろしています。これまた、初めての交流電化区間の光景は後回しにしましたが、20000Vの架線が、水分で唸っているのには恐怖を覚えました。
 まずは、北陸本線の線路沿いに富山方面にあるきました。踏切からは「明星セメント」の専用線も見えます。カーブの向こうの林に怪しい小屋が。辿りつくとそこは専用線から国鉄の貨車に荷を積み込み専用ホームです。国鉄の1067ミリに比べ、なんとも可愛い610ミリ軌間の線路がありました。今度は、右にカーブした結構な勾配の線路を辿って行きます。相変わらず、小雪とみぞれ交じりのいかにも「日本海側の天候」です。ほどなく、あっけなく、工場のほうから可愛い汽笛がしました。始めてみる軽便の汽車の声です。当時は日本で一番新しい、別の言い方をすれば日本で最後に製造された昭和31年製のチビロコです。すぐに軽快なドラフトを響かせて日本海からの風を受けてトロッコ3両を推進してくる姿が見えてきました。近代的ではありますが、好ましい姿です。この時が、以降何回かになる東洋活性白土糸魚川詣での始まりでした。

 冒頭の、「サンパチ豪雪」の記事、写真は、その何回目かの急行「日本海」での経験にダブります。こちらのほうは、またの機会の。

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