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カテゴリー「鉄道」の記事

2009年8月15日 (土)

1971.4.5 足尾線草木~沢入 C12重連貨物レ

田中正造、古河鉱業、足尾鉱毒事件という文字が浮かぶ日本の近代化の矛盾を一身に担ったような足尾線に行ったのは、「鉄道ジャーナル社主催 足尾線撮影会」ででした。当時ジャーナル社にいたカメラマンのAHさん、小学生のちびが付きまとってしまっていたのにやさしくしてして下さってありがとうございました。夜の池袋から、堂々バス2台で繰り込んだ足尾線でした。
それにしても、C12の切れのよいブラスト×2は、大迫力でした。35ミリカメラの方は露出不足で朝の列車は全滅でした。後に草木ダムで水没したこの区間はすごい光景を見せてくれました。C12 最後に寄った桐生支区にいたハンサムなC50の154号機には後年亀山でデフ無しでしたが再開してビックリしました。

2009年8月 9日 (日)

1971.7.18 京王帝都電鉄井の頭線渋谷駅 3000系

19710718 今はビルに覆われた井の頭線。この時期、ステンプラカー3000系は急速に冷房化がされていました。
本線の5000系で様々な冷房方式を試しながらも、この頃の京王帝都は首都圏一の冷房化率を誇っていたのではないでしょうか。
渋谷には、バス、電車どちらでも出られたぼくのうちは、この頃から夏は電車メインとなりました。
考えたら、路線バスで冷房車を意識したことがあるのはこの5年後です。
奈良盆地を走る奈良交通のバスと、京福系の京都バスでした。あとは、西鉄バスでしょうか。いずれにしても暑い場所です。
学生時代は、御池通を90km/hで疾走するエアコン、エアサス付の京バスさんには散々お世話になりました。
バックに見えるのは、営団地下鉄銀座線の渋谷車庫です。アドバルーンも揚がっていい感じです。ホーム上の灰皿も懐かしい光景です。渋谷車庫の高架と出発信号機の間の真新しい道路は、玉電の線路跡です。
小さい頃は、井の頭線の電車を待っていると、玉電が行き来していて、30形や40形が来るとがっかり。デハ200形のぺこチャンが来たらその日はご機嫌でした。
冷房装置は、様々な会社の試行錯誤のなかでの、トレーラーは集約分散方式、電動車は集中方式、が標準となったかに見えましたが、現在では、大手の通勤車は集中方式となったようです。

2009年7月19日 (日)

1972.8.22 阪急 桂 2800系特急

2800  夏になると思い出す。
 尾瀬ではありません。初めて関西に行って鉄道三昧をした時が夏だったからです。ものすごく気合を入れて一ヶ月前から「関西ノート」を作成して、鉄道雑誌などからの情報をひたすらまとめていました。その中で「私鉄王国関西」というフレーズがこびりついていました。本当に、今思えばまったくの片手落ちもいいところです。当時の国鉄で回らなければならないところは沢山ありましたし、阪神国道線などは訪問していません。目の前にあったのに。
   第二回目の関西は本当に駆け足でした。括弧内はお目当てです。
 そのときの行程は、中央西線(D51/C12)--飯山線(C56)--信越本線(ファミリーD51)--篠ノ井線(DD51/キハ181)--小海線(C56)--伊勢市(近鉄特急車/2200系)--紀勢本線(C57)--加太越え(D51)--京都(キハ82/EF65「日本海」/新快速)--阪急京都線(P-6/2800系)--京阪(1900形2種/3000形--糸魚川(EF81/東洋活性白土専用線/C12)--百間町(廃止後の頚城鉄道)--仲間と糸魚川~親不知~越中宮崎かち歩き、で7泊8日かけています。
 一度目の訪問で、阪急そばの関西味付けのおうろんとかやくめしに凝ってしまったぼくは、この時も桂駅で、すうどん、かやく、それに当時はふかしたてのしゅうまいを頼めました。しゅうまいがメニューにある阪急そばは少なかったようです。十三店にはありました。学生の頃はたびたび桂まで食べに行っていました。この頃の桂駅は、とてもハイカラなイメージのある駅で、嵐山線専用ホームは、本線のホームに挟まれ草が生えて、木立がホームの真ん中にあってとてもよい駅でした。
定速度運転機能付の特急がすごい速度で駆け抜けていく横をP-6、デイ100がゆっくり入換をしています。嵐山線には半端者となっていた705Fがいました。
 学生になった頃に、2800系の後釜の6300系が製作され次々と運用に入り始めました。そんなある日のことでした。
神戸のライブハウスに向かうため京都線の特急に乗りました。新車の6300系です。
 山崎で、国鉄をアンダークロスするときに、向日町からの西行き寝台特急の回送列車を引いたEF58牽引の列車を追い抜きました。当時の山崎駅のカーブの制限速度は90km/hだったと思います。それに対して阪急はアンダークロス部分のカーブは95km/h制限でした。間違っているかもしれません。いずれにせよ、6300系特急が大山崎駅に駆け上がった時には既にノッチを入れています。ちらりと横を見るとEF58の回送寝台特急は後ろに去っていきます。そのうちに、最高速度110Km/hになりノッチoff。上牧駅を通過するときに先ほどの58牽引列車を見ると、なんとじりじり速度を上げてくるではありませんか。
水無瀬駅通過時点では追い抜き初めています。こちらは、110km/hのままです。
下り勾配の緩やかなカーブをにはいりました。と、その時、113km/hで自動的に常用最大ブレーキをもらってしまいました。
107km/h位でブレーキが緩み、またノッチを入れて最高速度110km/hにあげましたが、58の回送列車は圧倒的な速度差でどんどん遠ざかってしまいます。速度差は20km/h位はありました。正に、EF58恐るべしです。それまでもいろいろな機関士さんからは高速域の加速はEF65よりもはるかによいとは聞いていましたが、目の前で見てしまうと改めて感動しました。でも、ある機関士さんにはEF65P型で140km/h出したと聞いたことがありますが。

2009年7月18日 (土)

1970.11.8 1M 特急「はつかり5号」上野駅発車 583系

583_1m_2 先日もまた、東海道本線に583系交直両用寝台特急形電車が入りました。
たまたま追いついた583系の後ろ姿を横浜駅で見たら、思わず落涙しそうになりました。
あの、クリーム1号と青15号の色、そして、郡山工場で丹精込めて作った「本物そっくり」の凸凹のない前面貫通?扉。
ホームの端から少し遠目に見たら、なんだか現役時代の「はつかり」を思い起こしてしまったからです。
その日は、うす曇だったので特に塗装が映え上野~青森を、最高速度120km/h(以上)で駆け抜けていたあの頃の肌の色つやに見えたからです。
青森までは、あの有名な、一県一駅停車(当然埼玉県は除きます)1M「はつかり」で、走りに走って8時間15分。
しかも、首都圏での遅れは(誰もみていないところで)ひたすら取り戻してです。
線路が悪くなった1970年台の終わり頃には比較的車体の軽かった485系などは、完全に上下、左右のゆれに台車がボトムしていてガツンとくる恐怖の走りもありました。しかし、583系は車体の重めなせいでしょうか、速度が上がるにつれ逆に安定したような走行になっていました。かつて、電化前の経験を持つ名古屋の機関士さんから、蒸気機関車は最高速度をオーバーをして走ったときには逆に静かになる、と伺ったことがあります。
しかし、こんなこともありました。
1M「はつかり5号」に夏の終わりに乗った時のことです。いつもの楽しみで、編成中程の7号車の食堂車に大宮を通過した頃に入りました。もちろん、貧乏なぼくはチキンライスです。
車内は3割程の入りでした。いつものように北関東の平野に飛び出した1Mは、ひたすらノッチを入れ最高速度近くで走行しています。結構横揺れがでています。チキンライスが出るまでの間、ふと横の席を見ると小さな姉弟がいました。
親らしき人はいません。上のお姉さんは小学校2年生くらい。弟は幼稚園の年中さんくらいです。僕よりも先に、お姉さんにはアイスクリーム。弟くんにはサイダーが運ばれてきました。お姉さんは椅子に座れますが、弟くんは届かないので、靴を脱いで椅子の上に上がって上手にサイダーをコップに注ぎました。そして、コップを両の手で持って口に近づけ、いま、正に飲まんとした、その瞬間!。ドン、と横揺れがありました。弟くんは、そのポーズのまま、椅子ごと通路側に倒れました。まるでスローモーションを見ているようで、本当に、コップを手に持った姿勢のままで椅子とともに倒れたのです。また、お姉さんも何が起こったのかわからず、いきなり弟の姿が無くなったのできょとんとしていました。すぐにぼくも助けようとしましたが、ウエイトレスのお姉さんの方が先でした。弟くんはその瞬間に大声で泣き始めました。かわいそうに、急に倒れてびっくりしたし、痛かったろうと思っていたら、泣きながら
弟くんが言っていたのは、「サイダーをごぼじぢゃっだぁ~」でした。お姉さんは「ちゃんとしてないからだよ」ときびしいことを言っています。でもウエイトレスのお姉さんが、サイダーをもう一度もってきて弟くんのコップに注いでくれました。
めでたしめでたしでした。
結論的に言えば、食堂車というものは大人でも出されたばかりのコーヒーを普通の感覚で飲もうとすると火傷するものなのです。
揺れるのです。だから、暖かい飲み物は「すすり」ながら飲まないとだめです。口の中に入る前に微妙に冷まさないと。
ああ、食堂車に乗りたい!!

先日の写真です。カラーはむつかしいです。

583_2

2009年6月29日 (月)

1975.3.7 1102レ 急行「桜島・高千穂」 スハフ43 334

19750307  この6月、横浜周辺ではEF65501の引く旧型客車の列車が4日も走りました。かつては、どこにでも客車列車は走っていました。特に、朝晩の通勤通学列車には輸送力が必要だったので客車列車が沢山設定されていました。
   色々な客車に乗りましたが、一番嫌いだったのは最後の50系客車でした。それは、感覚的なものだとは思います。50系客車が出る前は、実は12系客車が嫌いでした。なぜなら、まるで急行電車だったからです。 同じように、電車特急みたいな14系客車も嫌でした。自分自身の中で作られた「客車」のイメージ臭くなかったからです。
でも、急行や特急は「速い」ので許されます。いえ、許してあげます。でも、50系客車は普通列車向けです。変な風に明るくて、ドアも自動で。当時は、「客車じゃない」と言われていました。
 ぼくらは、ナハ22000系や、オハ31系などの17メートル級客車は、事業用車でしか知らない20メートル級客車世代です!。地方に行かなくても、そこいら中にスハ32系、オハ35系、スハ43系、オハ60系、61系がいました。
  それにしても、オハ60や、61。それに43系、スハネ16の乗り心地は特徴的でした。
  オハ60や、61系は、70km/hを越えると劇的に変化しました。何というか乗り心地は突然嵐に中に投げ込まれた小船なのです。
なので、山線などの速度の低い線区に使用される分にはよいのですが、がんがんにかっとばす東北本線や、北陸本線などでは避けていました。それでも、正月やお盆のなどの多客期運転の臨時急行などに使われることもありました。定期列車は混んでいるので乗らざるを得ない場合もありました。
  転じて、43系は、これまた極端で顕著でした。すなわち、80km/h出ないと乗り心地が悪いのです。特に40km/hほどでたらたら走っていると、あのTR47台車は線路のジョイントを拾って「ドシン、ブルブルブルブル」「ドシン、ブルブルブルブル」「ドシン、ブルブルブルブル」となります。すなわち、「ドシン」のあとにビビリ振動が続いて「ブルブルブルブル」です。

  今乗ると、線路がよいのであまり意識されないかもしれません。

2007年3月29日 (木)

1972.2 鶴見川橋梁 0系 若番

0  なんだか、前回は「新幹線」についての書きたい事をかけないままの消化不良で終っていたみたいなので、続編を。
 前回は、標準軌のワイドな素晴らしさに感動したあたりで終っていました。1989年に横浜博で見た中国の前進型蒸機の大きさ、ボリュームは実感出来るいい例です。
 実は、高校の時に品川にあった新幹線東京第一運転所で車内清掃のアルバイトをしました。当時、時給は高校で480円くらいだったでしょうか。なのに、そのバイトはなんと、忘れもしない240円でした。清掃は、一車両に2人、ただし、当時食堂車は無かったのでビュッフェは客室が半室のため一人。そして、便所屋と呼ばれていた洗面所、トイレ選任に16両編成の半分ずつの8両分を受け持つ3人チーム。それと、作業長(男)一人、副作業長(女)一人の総勢((普通車、グリーン車2人×14両)+(ビュッフェ付車両1人×2両)+(便所屋3人×2)+作業長+副作業長)38人が3組いたと思います。一日で、6本くらいを清掃しました。
 朝、品川の地下通路の海岸口寄りにある、1メートル程のドアを背をかがめてくぐり抜けると(まるで不思議の国のアリス!)そこは、車両清掃のおじさんや、おばさん、検修掛、運転士、車掌がうろつきまわる別世界が拡がっていました。毎日出勤すると、ボードの車両番号の下には本日の担当の名札が貼ってあって一喜一憂したものです。清掃時間は約50分です。トイレのない座席のみの車両は22列。トイレ付きは20列。先頭車でも東京寄り16号車はトイレなしで18列。そして、大阪寄り1号車はトイレが付いて15列でした。無論、運転室内も清掃対象です。だから、1号車や16号車に当たると一日ウキウキでした。特に15列しかない1号車は最高でした。担当車両に行くには必ず8、9号車から入りました。先頭車両が担当の時には車内に入ってからも200メートルを歩くのです。清掃中には、当然運転席に座ってみたりしましたけど、必ずタイフォンペダルを誤って踏んでしまい、あの独特の警笛音を楽しみました。それにしても高い運転台です。さすが標準軌です。特に、運転席横の窓を開けると目が回るほどの高さ(おおげさ!)でした。また、構内の踏切で待っていると入出庫する新幹線車両が、ゴムの排障器をレールに押し付けて(意外と構内は線路が悪かったようです)ふわふわとしながら見上げるような巨体を見せてくれていました。構内の外れにはよく911形ディーゼル機関車が止まっていました。一度だけ、911形の運転室の清掃をしました。線路からのステップを上がる時、大きさを実感しました。あんな機関車はいません。
 新幹線の車内清掃は1回きりでした。いかんせん、時給が安すぎて安すぎて。

2007年3月26日 (月)

1972.6 0系 35形車内

35_1  基本的に、新幹線は好きではありません。「合理的」「ドライ」といわれていますが、基本的にそうなのです。中身としては、戦前の弾丸列車計画の復活でした。そして、鉄道技術界の夢だった標準軌での幹線運行でした。200キロオーバーの電車方式でのフリークエントサービスは、当時、世界初の試みでした。「shinkansen」の成功に影響を受けたアメリカではメトロライナーが出来ました。また、ヨーロッパ諸国では最高速の向上が行われました。
 初めて乗った時の記憶です。無論、0系です。多摩川通過までは速度は110キロ(当時)に抑えられていたので、堂々とした「大名列車」といったイメージでした。しかし、大きくカーブしながら新丸子付近を過ぎたとたん、あの加速が始まりました。外をみていると、ドンドン速くなっていくのがわかります。気持ちが悪くなるほどです。車窓からみる光景は、まるでテレビのようです。つまり、実感のない画像なのです。でも、その車両が走っているのを外から見るとその実感が湧きます。人が乗っている!恐ろしい!が実感なのです。今でもそのギャップは埋まりません。だから加速中は気持ちが悪くなります。
 小さい頃は「夢の超特急」、という言い方が当たり前でした。絵本にも、「夢の超特急」として、アメリカ型の列車の想像図などが沢山載っていていました。初めて試作車を見たときには正直いってがっかりしました。量産車は少しはマシになりましたが。開業後には、「おかあさんと一緒」で実写を使っての「びゅわーん、ビュワーン走る、丸い光のボンネット」といった歌も流れていましたが、151系「こだま」世代としては違和感がありました。「こだま号のうた」は、素晴らしい曲でした。いつか、東田子の浦や、由比付近、街中が写ったあの実写と歌を聴ければとおもいます。
電車による長距離運用をたくみに織り込んだ名曲でした。「○急、○急、○草くわずに○ユーン○ユーン。○ラソン選手の○ピード選手の、○だまは走るよ ○ユーン○ユーン」。
 それでも、新幹線には魅力がひそんでいます。そうです。「標準軌」としてののスペックです。長さで5メートル、幅、高さで50センチのサイズは圧倒的な迫力です。写真は、椅子付きビュフェ35形車両です。

2007年3月22日 (木)

1973.8 スハ32形客車室内灯 宗谷本線324レ

Denntou   旧型客車がまだ全国にたくさんあった頃にはいろいろ気になることがあって乗車していても楽しめました。
 たとえば、この写真のような室内灯です。蛍光灯改造されたものは急行などの優等列車に優先充当されていましたが、白熱電灯の客車は電灯カバーの形状、明るさももさまざまでした。この写真のスハ32も、天井などは白く塗られて明るくなってますが、ニス塗りの元々の天井に塗ったせいなのか、ニスのみの天井と同じようにひび割れています。夜行列車などでは寝っ転がると、目の前にある電灯カバーと台座(ベンチレータの室内側を兼ねた)形状が楽しみでした。電灯カバーにも、重要文化財になった建物についているような凝った美しいものが沢山ありました。台座も負けじと美術品のようなものが多く、形状もさまざまでした。
 最近昔からある駅のホーム上屋を支えている柱の形態に興味があります。あの頃、記録をしておけばよかったと悔やまれます。
 また、トイレ、洗面所の話は長くなるので、またも別の機会に譲りますが、それ以外にも、板張りの背ずり、アームレストの形状。なかには、旧型電車のように改造によって窓配置と座席位置のズレたもの。そればかりか、デッキがわの妻の壁面に掲示してあった「全国鉄道路線図」?が相当長い間変更されてないようで旧字体だらけだったり。
 ちょっとだけトイレねたでは、トイレドアに貼ってあった「上野~赤羽 便所使用禁止」「東京~横浜 便所使用禁止」の小さなプレートなんてのも興味を引きました。デッキの出入り口ドアの取っ手の形状もいろいろありました。旧型客車ではありませんが、いちばん最近では、鹿児島本線の457系の網棚が、文字通り「網」棚で残っているのに感動しました。あの「網」を編める(メンテ)人ももほとんどいないとか。いつかその写真をお見せいたします。

2007年3月19日 (月)

1972.10.9 急行「立山2号」になる快速 糸魚川

Koucyoku   「急行型交直両用電車」。なんと、かぐわしい言葉の響きでしょう。初めて、交直両用の急行電車を見たのは、上野駅からの「ときわ」だったのか、よく家族で行っていた伊豆だったのかの記憶はありません(「常磐伊豆」という急行がありました)。でも、153系、165系、169系などの湘南カラーの急行電車によく乗っていたぼくには、そのカラーリングと、ステップのついた出入口のスタイルが衝撃的でした。
 屋根上の特高圧機器もなんとも素敵でした。また、165系「アルプス」の乗車回数が多かったので山線での急行には慣れていましたが、あとから乗る機会が増えた交直流両用電車の急行は線形のよい東北本線、常磐線、北陸本線などでひたすら飛ばすイメージを持ったのも好きだった理由です。
 乗ったことのある交直両用急行は「まつしま」「あずま」「ときわ」「ばんだい」「くりこま」「くずりゅう」「立山」くらいでしょうか。その中で、特に印象があるのは、「立山」の糸魚川延長の快速使用の新車の457系に乗った時でした。
 まず、感動したのが座席の背当て部分の変化でした。今まで以上に分厚くなって、長時間乗車でも疲労しにくい最高の乗り心地でビックリしました。この頃(1971)新製されたばかりの金沢配置の車に偶然乗ってしまったようです。他の急行型がドンドン経年変化で背ずりがぺこぺこになった後年になっても、最後までその状態を保っていました。同世代の12系などでも味わっていないので、1971年新製分だけかもしりません。これ以上の座席は、正直いってそれから後の特急車両も含めて今だにお目にかかったことがありません!。また、「大好き」な「便所」がFRP製になってびっくりしました。独特のにおい(接着剤?)と、あのシームレスな隅が丸くなって清掃の手間を考えている個室のムードには驚きました。まさに、システマチック!を旨とした近代合理主義の一つのピークを見たような気がしました。
 列車トイレの話を始めると長くなるので別の機会に。ぼくと同年代の鉄道ファンには不思議と「列車トイレ」についての「うんちく」を垂れる人間がなかなか多くて不思議です。そういった、社会学的考察もしちゃいたいところですが。
 これらの急行型交直両用電車も、急行運用がほとんど廃止された国鉄末期から変な塗装になってしまい、興味の対象から失せたのですが、近年九州あたりからはじまったのでしょうか「国鉄色」に戻したイベント塗装が増えたのはうれしいことでした。60Hzの印の車体下部のラインも復元されました。東北、常磐筋はそのラインがないのは当然でその雰囲気が好きでしたが、北陸、九州ではあって当たり前でしたから。

2007年2月12日 (月)

1971.8.24 C56129 上桑名川

C56129  飯山線は、八ヶ岳の麓の川上付近から流れ出た千曲川と並行して日本有数の豪雪地帯を縦断しています。そういえば、初めてラッセル車を見たのもここ飯山線でした。C56に押されすごいスピードで来たのでビックリしたものです。冬になると戸狩(野沢温泉最寄)までのスキー臨時列車が上野から直通していて、借り入れたC12やC11などがその任にあたっていたようです。これらの臨時急行「戸狩スキー」、「野沢スキー」などは見ていません。
 ぼく自身は、朝一番の飯山発長野行の通勤通学の222レに興味がありました。当時長野、篠ノ井駅で入れ替えをしていたハチロクが唯一定期で引いていた旅客列車だったからです。しかし、長野始発で行っても撮影予定地までに大雪で動けなくなったり、豪雨で暗すぎて撮れなかったりで、撮影は1度しかチャンスはありませんでした。でも、ころんでもただでは起きないのが、鉄道好きです。「撮れない!」の判断で駅にとって返して乗っています。遅れを持っての豊野から信越本線に入ってからの走りっぷりは、山国信州では特筆ものでした。他の線区は動輪直径1400ミリの足の短い貨物機だけでしたから。さすが、大正期の急客機の走りでした。なんともいえない、三階室の汽笛とスルスルと上がっていく速度は信州ではここだけでした。
 夏の飯山線では、写真を撮っている人にお目にかかった事がありませんでした。なんともノンビリした良いところでした。写真を撮ったお隣の桑名川駅に冬、父とスキーに来た事がありました。 雪の桑名川駅に降り立ったのは冬の16時頃でした。すぐに、千曲川の岸辺に下りると「いない時はこれを叩いて知らせてください」と書かれています。木のげんのうと1斗缶がブル下がっていました。そうなのです。千曲川の渡し船に乗らないと対岸の七巻スキーと今夜の宿には行けないのです。雪の中、ガンガンと1斗缶を打ち鳴らして待つこと5分くらいで船がきました。船が流されないように、川幅一杯に張られたワイヤーに連結されています。船頭さんは皮の手袋でそのワイヤーを持ってたぐって、船を対岸に運びます。実に寒そうです。痛そうです。対岸では雪がすごく、初めて二階から入る経験をしました。

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